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新宿区ダンボール絵画研究会

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第1回会合議事録「稲葉剛さんに聞く」
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    稲葉剛

    作成:毛利嘉孝
    開催日時:2005年4月30日(土)11:00〜15:00
    場所:NPO法人自立生活サポートセンターもやい「こもれび荘」
    タイトル:「稲葉剛さんに聞く」

    Quick Time動画(深瀬鋭一郎撮影)(320x240 15fps 255.8MB)
    http://deadbeef.is-a-geek.net/movies/inabasan.mp4


    新宿連絡会のメンバーであり、飯田橋のNPO法人自立生活サポートセンター・もやいの代表理事を務める稲葉剛さんは、武盾一郎が新宿のダンボールハウスに絵を描いていたときに、新宿連絡会で野宿者支援を行っていた主要メンバーのひとりである。今回は、新宿連絡会の立場から新宿の九〇年代とはなんだったのかを考えるために、4月30日(土)11時から、飯田橋にあるもやい事務所「こもれび荘」二階に集まり、稲葉さんの話をお伺いした。集まったのは17人。司会は武盾一郎。また当時西口地下道で野宿生活をしていた内藤幹雄さんも参加した。

    以下稲葉さんの話(以下断りのない限り地の文は稲葉さんの話):

     私は、1994年から1998年まで新宿連絡会として、新宿西口「ダンボール村」の野宿者の支援をしていました。新宿連絡会は、現在も新宿中央公園で炊き出しなどの支援活動を続けています。現在、都のホームレス対策は進んできていますが、野宿者が家を借りるにあたって保証人が必要であるとか、さまざまな問題を抱えているので、2001年からNPO法人自立生活サポートセンター・もやいを設立し、自立支援のための相談を行っています。

     当時の状況については、97年から98年に発行された「ダンボール村通信」、現在も続いている「露宿」といった同人誌のほか、中村智志さんの『路上の夢』(講談社)、『ホームレスになった-大都会を漂う』(ちくま文庫)、『新宿ダンボール村:闘いの記録』新宿連絡会編(現代企画室)などが、参考になると思います。

    こもれび荘1

     私自身、ダンボール村に対して複雑な思いがあります。当時は「新宿の上祐」なんて呼ばれたりして(笑)、スポークスマンのような役割もしていたのですが、その後はあまり語ってきませんでした。98年に火災があり、四人の仲間を失ったこともあり、いまだにものが言えないような気がしていました。新宿連絡会では、路上のコミュニティを維持することに汲々としていて、コミュニティの内部の問題が見えていなかったとも思います。

     ひとつの反省として、活動家があまりに語りすぎたというのがあります。ダンボール村を美化しすぎた面がありました。失業や倒産で追いやられた人々が、支えあって生きているということを強調しすぎたために、中にあるほんとうの問題を見てこなかったのではないか。そういう反省があります。先ほど紹介した「露宿」は野宿の人びとのそのまま寄稿してもらうことでできている雑誌で、支援者はあえて前面に出ないでいます。

     少し順を追って、当時の状況を話してみたいと思います。

    ボードに書く稲葉
    (稲葉さん地図を白板に書く)

    地下道マップ

     1994年2月に、東京都が第一回目の野宿者の排除をしました。もともと時々お金がない時に野宿をしていた人はいたのですが、1991年に東京新都庁ができ、バブルがはじけると、野宿をすることが常態化する人々が増えてきます。最初の排除は、Dの場所に都が野宿者を排除しようとフェンスをつくります。そのことにより、野宿をしていた人々はBとEに移ります。

     これに対して抗議活動をしたのが、新宿連絡会のきっかけになります。この抗議活動には大きく二つのグループが参加しました。ひとつは代々木公園のイラン人排除に反対をしていた「いのけん(渋谷・ 原宿 生命と権利をかちとる会)」、もうひとつは山谷地域で、日雇い労働者の労働運動をしていた山谷争議団です。

     この頃なぜ新宿に野宿者が集まっていたのかというと、新宿に食べるものがあったからだと思います。「エサとり」という表現があります。「エサ」というのは、野宿者が自分たちが拾い集めて食べるものを自虐的に呼んだ言葉で、私はこの言葉を聞くといまでも複雑な気持ちになりますが、新宿は繁華街があり、残飯や売れ残った食べものがたくさん毎日でるので、野宿者にとって暮らしやすいというのが確かにあります。

    <内藤>あと高田馬場西山公園にむかしは寄せ場があったので、大久保にドヤ街があった。今ラブホテルになっているのはドヤ街のあたりだよね。

    内藤さん
    (当時、西口地下道に野宿していた内藤さん)

     1994年2月に大規模な排除を行なった後も、都は野宿者を定住化させないために、抜き打ちの撤去を続けます。当時、ダンボールハウスは「廃材」だというのが都の認識で、排除は「路上廃材撤去作業」と呼ばれていました。特に寒い時期に排除が行われたので「このままで殺される」という悲鳴が野宿者の中から起きるのもこの頃です。

     当初、いのけんと山谷争議団は別々に支援活動を行なっていましたが、94年8月に合同して新宿連絡会を結成します。新宿連絡会としてはまず、東京都と新宿区とを切り離すような戦略をたてます。新宿区は、1980年のバス放火事件(当時の新宿西口で野宿をしていた人が、精神的に追い詰められた結果犯行に及んだという事件)以降、「環境浄化対策」という追い出しを行なっていたのですが、交渉の結果、「環境浄化対策」の「浄化」の語を取り除き、新宿区としてはホームレスを排除しないという確約を得ます。こうした経緯の中で、排除圧力が一時的に弱まり、B通路を中心に80件くらいのダンボールハウスが増えます。

     支援を始めた当初、新宿連絡会としては炊き出しを行いませんでした。それは、このダンボール村に、お互いに助け合うコミュニティを発見したからです。炊き出しをすることによって、「与える」−「与えられる」という関係を固定化することを恐れたのです。最初に炊き出しを行ったのは、94年?95年の越冬闘争ですが、「みんなで作ってみんなで食べる」というスタイルにこだわりました。この頃には、300食の玉子かけご飯を準備していて、それで足りていたのですが、その後、野宿になる人が倍増し、ダンボールハウスも増加していきます。

     95年に青島幸男が都知事に当選します。実は当初は青島には期待をしたのですが、すぐに幻滅に変わります。8月になると、動く歩道を13億かけて設置し、野宿者を排除しようという動きがあることが、内部告発によって発覚します。ただちに新宿連絡会は、反対キャンペーンをはじめ、新宿区から「対策なき排除には協力しない」という確認を得ます。また、この13億は宝くじ協会から受け取るというので、宝くじ協会に対して「福利厚生」を支援すべき協会が野宿者排除を支援するのはおかしいと抗議し、やはり、協力はしないとの回答をえます。この間都は話し合いに応じませんでした。

    <武>ぼくが絵を描き始めるのはこの頃(95年8月)ですね。ちょうど排除へと向かう緊迫した所に飛び込んじゃったんですね。吸い寄せられたっていうか。

     ところでこの頃、野宿をしている人に、自分はどう呼ばれたいのかと聞くと半分の人は「日雇労働者」と答えたんですね。残りは「野宿労働者」です。「ホームレス」というのはいませんでした。(内藤「外国語だからね」)当時のダンボール村にはいろんな人が野宿をしていました、ケンさんという人が有名で、自分の大きなハウスをサロンにして、みんなが集っていました。丸さんというダンボールハウス作りの名人もいました。

     96年に1月24日強制排除があります。これも実は、2、3日前に内部情報で、そろそろありそうだ、というのはわかっていました。強制排除は、早朝、一般の通行人が来る前に行われました。

     「玉砕だ」という声もあったのですが、最終的には守りきれないと思っていたので、事前に排除があったときにどのように対応するか相談をしていました。そこで、強制排除だれると予定どおり、インフォメ前(インフォーメーション・センター前)に移動しました。武さんの「新宿の左目」があった辺りです。ここには人が住まず、ちらし、ストーブなどのモノを置いていました。(<武>もともと二階建てにするはずだったんですよね。)いや、それはなかったと思います(笑)。この時に連絡会の笠井さんと本田さんが逮捕され、9ヶ月拘留されます。
     インフォメ前は、狭かったのですが、通行人が多い場所でした。96年1月から98年1月まで武さんがここで絵を描きます。

     96年8月に行われた新宿夏まつりは、盛大なものでした。大工哲弘が来たということもあって若い人が集まりました。翌97年のソウルフラワーもののけサミットが来て、若者が来すぎてしまって、野宿の人が追いやられる感じになってしまいました。「オレたちの祭りなのになんだ」という声も野宿者からはあり、音楽班と新宿連絡会の間に摩擦もありました。兼ね合いが難しかったイベントでした。

    <内藤>今は大丈夫じゃないかな。若い人(のホームレス)も増えてきたしね。

     この時期は、少し状況が明るくなる頃です。97年3月に、強制排除の時に逮捕された二人について無罪判決がでます。ダンボールハウスは所有物であり、排除にはそれ相応の理由が必要とされたのです。もっとも、この判決はのちに、高裁、最高裁でひっくりかえってしまいます。

     97年10月に、連絡会が正式に交渉相手として認められて、都の間に話し合いがはじまります。この当時は、ダンボールハウスが増えていた時代で、住む人が決まっていなくても先にどんどん作っていました。ただ増えすぎて過密していたのも事実です。

     今反省することは、この間に自治的な活動ができていなかったというのがあります。たとえば、やくざ的な人がいて、暴力で上下関係ができていたりしました。また弱い者イジメや搾取なんかもありました。この頃、ダンボール村をほんとうに守るべき価値があるのかという議論が内部ではありました。

     そして、98年2月7日に、ダンボール村で大火災がおきます。これを未然に防ぐことができなかったということは、今でも悔やまれてなりません。この火事で50軒のダンボールハウスが焼け、4人が死亡します。うち二人は夫婦でした(内藤「厳密にはちがうよ」)。今思えば、外部の圧力から守ることにすべての力が奪われてしまっていて、コミュニティの質の問題に取り組めなかったという問題がありました。

     その後2月14日に封鎖され、自主退去します。この頃にはすでに東京都と交渉の回路ができていたので、希望者約170人全員が一時的に施設に入り、希望しない約30人は新宿中央公園に移動して、テント村を作り始めます。

     以上が、ダンボール村のあらましです。


    こもれび荘玄関

    <武>撤去後、インフォ目前に段ボールハウスがグワーッと急増する。(段ボールハウスを)作っているそのようすが、一種の風物誌になってた。けど、入る人が決まる前から作っているとは、知りませんでした(笑)。あんまり増えるんで絵が追いつかない。
    96年7月に動く歩道が完成して、AとEの通路に3800万円かけたあの突起物(パブリックアート?)ができます。今はA通路にしかありませんが。(それがまたムカつくんですが)

     96年8月に「都市博」に対抗して、B通路で「都恥博」をというのをやりました。

    <岡井>青島都政が中止した「都市博」がらみですが、補償事業として企画され、1996年8月に東京ビッグサイトで開催された「アトピック・サイト」(正確には「oncamp/off base」展)という展覧会に田崎英明らとともに参加した際、同年1月の新宿西口通路での攻防にインスパイアされた作品を制作しました。

    <武>(都恥博で)僕等は路上を占拠してライブペインティングしました。舞踏家の酒井敦さんも加わって。興奮冷めやらなかったのか、その直後、突起物に描いて逮捕されちゃうんですですね。
    最初に描かせてもらったのは、Sさんという方のダンボールハウスです。最初はいろいろあたってもなかなか描かせてもらえなかったのですが、だんだん許容されるようになりました。そのうちに描いてくれ、と頼みに来る人も出て来ました。
    ほかのダンボールハウスが全部描かれているので、ひとつだけ描いていないのは変だから描いてくれ、というのもありました。

    <内藤>近くでみると何を描いているのかわからなかったけど、遠くからみると顔だとわかったな。

    <質問>「連絡会は武さんの絵をどう思っていたのですか?」

     笠井さんは、あまり好きじゃなかったようです(笑)。(<武>えー、ショック(笑))西口の地上に行くと昔ながらのダンボールハウスがあって、ホッとしたなんていっていましたから。ただ私たちとしては、武さんのような人も全部味方にしたい、というのがありました。排除圧力に常にさらされる中、アーティストも通行人も全部味方につけて、外部に対してアピールをしないと「勝てない」という意識は常に持っていました。

     広く知らせるという目的があったので、メディアに書いてもらうためにファックスでメディアに情報を送ったりしていました。排除の日にはテレビ局のカメラが来ましたが、都がそのテレビカメラを排除しようとしたため、逆に都に対して批判的な報道が数多く流されました。その頃、遠藤大輔さんが新宿を撮影していました。

    質問

    <質問>「武さんの絵をアートとしてはどう思いましたか?」

     アートとしては……よくわかりません。ただ、人が集まって「村」ができ、そこにアートが生まれる、ということは自然ななりゆきとして感じていました。

    <質問>「支援者は何人くらいいましたか?」

     支援者は入れ替わりもあったので、常時いる支援者は数人でした。新宿連絡会の主体はやはり野宿している人たちだったと思います。

    <内藤>新宿連絡会として動くと食べものにありつけたからね(笑)。

     新宿夏まつりは、寿と連動していました。寿は1週間、新宿は一日の祭りでした。ソウルフラワーの中川さんが来たときは、約1000人集まったのですが、少しテンポが早すぎたようです。

    <武>ぼくにとっては、97年の夏祭りが、問題はあったかもしれないけど代表的なものだったと思ってます。スゴイ状態だったじゃないですか。いろんな人が出て、いろんな人が来て。個人的には大友良英さんと一緒にライブペインティング出来たし。

     今年の夏祭りは、8月13日・14日の土、日に中央公園で行います。

     98年に炊き出しが一時的に減りますが、その後、また増加に転じます。この頃からスーツ、ネクタイ姿の野宿者が見られるようになります。

     昨年7月に地域生活移行支援事業が始まりました。これは公園にいる人たちを対象に都が始めた事業です。これは、月3000円で住宅を2年間供給して、最初の6ヶ月間は都が仕事を紹介するというものです。

     反対する団体もありましたが、新宿連絡会としてはこれに協力することにしました。
     もちろん当事者がどうするのか決めるというのが条件です。本人が希望すればテントに住み続けるのもかまわないのです。この結果、百数十軒あったテントハウスは、現在30軒くらいまで減少しました。その一方で公園管理者は、新たに野宿者が公園に流入するのを防ぐために、出て行った後はフェンスなどで囲い込みをしています。

     現在都内の野宿者の数は、5000人から6000人と言われています。数はあまり変わっていません。ただ、日本で使われる「ホームレス」という語の定義には問題があります。本来、homelessとは、「権利として主張できる住居を持たない」という意味ですが、日本ではイコール野宿者という意味で使われてきました。最近の若者の場合、野宿をしても、短い期間で戻っていきます。ですが、その多くはアパートの立ち退きなどにあって、マンガ喫茶などで夜を過ごしており、本来の意味でのhomelessにあたります。そこで、携帯やメール、求人雑誌などで仕事を探して、飯場などに行っているのです。そういう意味で、「ホームレス問題」はこの社会の底辺で拡散してきていると言えます。

    こもれび荘引き

    <武>最後に、稲葉さんにとってあの段ボール村とは何だったんですか?

     新宿ダンボール村をふりかえると、そこには人間が「むきだし」になったときの極端な二つの現象があったと思います。ひとつは、支えあう力で、もうひとつは蹴落とす力です。この両方が存在しました。けれども、私たちはユートピアを見すぎていたように思います。

     私はイデオロギーで支援をしているのではありませんが、ダンボール村を見ていると「街というのはこうしてできていくんだなあ」という本来のあり方を見たように思いました。

    <内藤>ひとりでいるよりはよかったからね。今思えば、案外楽しかった。お互いに苦しいことも分かり合っているという感じがあったよね。

    2005.4.30.撮影:玉重佐和子
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    こもれび荘カフェ
    (こもれび荘・1階カフェにて)

    編集後記:
    当時、同じ時間と空間を共有した稲葉さん。
    あの、怒濤の時空の中で「違う風景を見ていた」ということも分かりました。
    けど、なんていうか、「命を賭けて、『ユートピア』を夢想した」のは確かだったんだなあと思い返します。(take)
    | 議事録・会合報告等 | 17:07 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
    第1回会合終了報告↓
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    | | 2005/09/05 10:26 AM |










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